「男はつらいよ」45周年記念 私と寅さん

テキ屋は素晴らしきエンターテイナー

渡部洋二郎さま (60代~ ) 関東 在住

僕は、大学生の頃、「寅さん」でした。

学生運動で騒乱の60年代の後半、新宿のゴーゴー喫茶で踊る僕は
その時代「フーテン」と呼ばれていました。

そんな僕が、僕の自慢の長い髪を切り、バイトを始めました。
そのバイトの場所は東京駅の大丸のデパ地下でした。
気が付くと、僕は「テキ屋のスーパースター」になっていました!

僕の父は、明治時代に、上野広小路で新聞売り、兜町と言う
株の街では、儲かった人に花売りをしてた人でした。
彼の江戸弁は、その時代の文人 久保田万太郎を驚かせ、
愛宕に出来た日本初の放送局 NHKでも、「最後の江戸弁を話す人」として、
紹介されたそうです。僕にも、そんな江戸弁の父の話し方、
リズム感ある話術が自然と入っていたのでしょう。

僕は、テキ屋始めて数カ月で、その当時のサラリーマンの月収の倍を
稼ぐようになりました。

テキ屋は、エンターテイナーです。言葉の表現以外にも、衣装から、
眼の配り方、、、それをユーモア、サプライズ等を込めて、オーディエンスに説得します。「買う気にさせる」、、、これは「魔術」です。

僕は、最終的に、販売時の説明の難しい「包丁」を、テキ屋の親分に
任されました。その一月後、僕は、いっぺんに、40本の包丁を売りました。
トータル10分ぐらいで、3万円以上の収入となりました。
10分で、当時のサラリーマンの収入を越えました。

僕は、その寅さんの仕事、テキ屋が楽しかったですね。
僕は、その稼いだお金を喜ぶよりも、自分のパフォーマンスの
楽しさを覚えました。

僕は、フーテンの寅さんの映画をいつ見たのかは覚えていません。
ただ、始めて見た時の率直な感想は
「な、な、なんだ、、これって、寅さんって、俺じゃん、、いや、
僕の先輩の多くのテキ屋さんの様だ!」でした。

そして、大学を出て社会人。初任給は、テキ屋時代の十分の一以下ですよ。
社会人になってから、歌手や役者さんの裏方仕事につきました、、。

そして、社会人になってから数年して、僕の当時の僕が
宣伝担当の木の実ナナさん、、東京の下町 向島育ちの姐さんです。
「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく(1978年)紅奈々子 役※第21作マドンナ」
でお世話になりました。

それにしても寅さんは、今頃、どこの街で、どこの街で、
何を売っているんでしょうかねぇ?


初回の旅先は今の我が家

赤石仙人さま (60代~ ) 関西 在住

寅さんシリーズ第1作の旅先は、京都・奈良でした。
まるで修学旅行のようですが、奈良で写真を撮っているのは奈良公園・鷺池に浮かぶ浮見堂です。
浮見堂に住んでいる訳ではありませんが、今の我が家は奈良公園の隣にあり、浮見堂は散歩コースです。
映画で観た檜皮葺(ひわだぶき)の東屋が奈良名所百選の一つであることを知ったのは、奈良公園の近くに住んでからでした。

 フーテンの憂き身で遠きマドンナが 微笑みかける浮見堂かな


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